1945年8月6日は、広島に人類史上最初の原子爆弾が落とされた日です。9日後の15日、日本の太平洋戦争が終わりました。当時、33歳だった日野原重明先生(聖路加国際病院名誉院長)は、医師として多くのいのちをみとりました。「戦争の体験を子どもに伝え続けることが、自分の使命」だと話します。今月の授業は「みんなに知ってほしい戦争のむごさ」――。
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「戦争を知ることは、いのちの大切さを知ることです」と話す日野原先生=7月、東京・築地
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B29の空襲がはげしくなる中、防火活動に出かける聖路加の消防団と、興健女子専門学校の生徒たち=聖路加国際メディカルセンター提供
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薬がなく目の前で命が…
私が東京・築地の聖路加国際病院で働き始めて5か月後の、1941年12月8日、戦争が始まりました。その後、3年9か月も戦争は続きました。
聖路加には当時、300人ほど職員がいましたが、40歳以下の男性は次々と軍隊に召集されました。病院に残ったのは、年配の医師や女性医師、日系2世の男性医師、私の数人です。私は大学の医学部2年生のとき、肺結核を病んだので、召集されませんでした。
終戦の5か月前の3月10日未明、約300機の米軍のB29が東京に爆弾を落としました。東京大空襲です。2時間半の間に10万人のいのちが失われました。
爆撃をまぬかれた聖路加には、顔も性別もわからないほど大やけどを負った患者さんが、担架で次々に担ぎ込まれました。腕や足が落ちている人も大勢いました。後で、千人以上の負傷者が収容されたと知りました。
ベッドが足りず、病院の礼拝堂や廊下などにもマットレスをしいて、患者さんを寝かせました。人間は、体の3分の1にやけどを負うと命が助かりません。薬がないので、新聞紙を燃やした灰を、ただれた肌につけることしかできませんでした。目の前で、人のいのちがどんどん消えていく。医師としてこれほど無力感を味わったことはありませんでした。
私たちと一緒に救護に当たった、聖路加女子専門学校(当時は興健女子専門学校)の3、4年生は、破傷風で口の筋肉が硬くなってしまった患者さんの口を開けて、水を飲ませていました。
患者さんの耳元で名前や年齢を聞きましたが、「苦しい」と言うだけでした。私はなぜか子どもをみとった記憶がありません。病院までたどり着けなかったのだと思います。
患者さんのうめき声や、焼けただれたにおいの中で、夢中で手当てして回った記憶は、69年経っても薄れません。病院も戦場だったんです。
争いでものごとは解決しない
この「いのちの授業」が始まって丸2年が経ちました。いのちの大切さを学んだみなさんに、私は伝えておきたいことがあります。
それは、争いでものごとは解決しない、という事実です。人類の歴史の中で、争いでものごとが解決した例はありません。戦争にも、いじめにも言えることですが、どちらかが許さない限り、「くやしい」という火種は消えないのです。
あなただけは、人を許せる強い人になってください。
〈私たちから日野原先生へ〉
東京都練馬区田柄第二小の元4年3組(担任・木村千恵先生)から「いのちの授業R」の感想が寄せられました。一部を抜粋して紹介します。
ぼくは、先生の「自分で疑問を持って解決することが何て楽しいんだろう」という言葉に共感します。なぜなら、勉強は疑問を持つと楽しくなると思うから。むずかしい問題を考えて、そして答えがわかった時は、やった!と思います。ぼくも、疑問を解決できてものすごく楽しかったのを覚えています。ぼくは、疑問を持って楽しく勉強していきたいです。(R・O)
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ぼくは、きびしい教育、やさしい教育のどっちがいいのか考えました。きびしい学校の経験はないけれど、プールでは経験しました。しっかりしなきゃと思ったし、早く終わってほしかった。反対にやさしい先生に出会ったことはないけれど、だめな気がします。ぼくは、日野原先生のお父さんやお母さんのように、きびしいけれど子どもの意思を尊重するのがいいと思います。たくさんの大人の教育を受けて、わすれない人生にしたいです。(S・M)
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