朝日中高生新聞10月12日
23/24

かずきかずき針谷こまち23(第三種郵便物認可)2014年(平成26年)10月12日学習係り結びでは「ぞ・なむ・や・か・こそ」の文末の形が変わりますが、「や」「か」の意味も大切です。反語って何?針谷先生教えて!かずきあれ。こまちちゃん、元気がないね。こまち飼っていたカブトムシが死んでしまったときに元気でいられると思いますか?かずきえ!カブトムシってこんな時期まで生きているの?こまち仮に長生きしたとしても、カブトムシが死んでしまって平常心でいられる人がいるでしょうか?いや、ゴメン。というか、さっきから何だか会話がぎくしゃくしているような……。針谷成虫のカブトムシは寿命が約2カ月だから、天寿を全うしたんだよ。幸せな生涯だったんじゃない?うわ!また絶妙に空気が読めていない感じですね。我くるしさのあまりに大ぶつでし声をあげて、「仏弟子を害ためしする例やある。我を助けよ助けよ」と泣き叫びぬれど、つひ聞き入れず。終に切らるるとおぼえて夢さめたり。うげつものがたり『雨月物語』こうぎ針谷魚好きの興義というお坊さんが夢の中でコイになって、釣り上げられてしまったという場面だよ。こまち読みやすい文章ですね。「例」は「先例」のこと。すぐ後の「や」による係り結びで文末が「あり」の連体形「ある」に変わり、疑問か反語を表すんだ。こまち反語って何ですか?針谷反語は、わざと疑問の形にすることで言いたいことを強調する表現技法だよ。こまちちゃん、さっきまでずっと反語でしゃべっていたね。かずきだから会話しにくかったのか……。「私は苦しさのあまり大声を上げて、『法師を殺すなんて話があるか(いや、ない)。私を助けろ、助けろ』と泣いて叫んだが、誰も聞かない。とうとう切られると思ったら夢からさめた」ってことね。いくら好きでも、私はカブトムシになりたいとは思わないかな……。次の文の傍線部は疑問か反語か、訳を参考に答えなさい。1幾日をか過ぐしけん。【訳】何日たっただろうか。『雨月物語』かれあひし2もとより他は相識るものなれば、つひえ何のはばかりかあらんとて遂に餌をのむ。【訳】そもそも彼は知り合いなのだから、何を遠慮することがあるだろうかと思って、餌をのむ。『雨月物語』3すべて、人に一におもはれずは、なににかはせん。【訳】何でも、人から一番に思われなかったら、どんまくらのそうしな意味があるだろうか。『枕草子』【解答】1疑問2反語(遠慮することはない)3反語(意味はない)はりやたくし針谷卓史作家。1977年生まれ。著書に『花散里』『針谷の短篇集』(講談社BOX)など。国際基督教大学高校(東京)で国語を教える。イラスト・たんば係り結び②係り結びの法則②・「ぞ」「なむ」「こそ」は文の意味を強める。・「や」「か」は文の意味が疑問か反語になる。疑問か反語かは文脈で判断する。たけのじょうおう承した武野紹!は「わびとは正直に慎み深くおごらないさまだ」と述べています。ちゃ珠光は、それまでの大勢による茶よりあい寄合をやめ、4畳半の茶室をつくり、主人(亭主)が少数の客を迎え、落ち着いた環境で心を整え、ゆったりと茶を味わう茶会を大切にしました。茶席でのお酒やどんちゃん騒ぎも禁止。茶室には中国渡来の派手な絵ではなく、高僧の書などを飾りました。茶室へは「にじり口」という、かがんで入る狭い出入り口をつけました。にじり口からは、どんなに偉い人でも、茶室の主人に頭を下げて入ってくることになります。珠光は「身分の高い者を粗末に扱い、身分の低い人に律義に応対しなさい」と述べています。これは人間はみな平等であるという思想といえます。珠光は、茶会の場では「これが一生に一度であるつもりで、会を主催した亭主を敬いなさい」と述べていいちごいちえます。これを「一期一会」といいます。一方、亭主に対しては「できるだけ客を敬い、相手を茶の名人だと考えなさい」としています。主人と客が互いを尊敬しあい、狭い茶室の中で心と心を通わせあいつつ、茶を飲むことが大切だと考えたのです。わび茶は戦国時代に急速に広まり、豪商や大名のなかにも茶人が多おだのぶながく現れました。その代表が織田信長です。広大な領土を支配した信長は、全国各地からすばらしい茶道具を集め、ときには家臣にほうびとして与えました。たきがわかずますたとえば、戦功のあった滝川一益こうずけのくにしなのは信長から上野国(群馬県)と信濃のくに国(長野県)の一部を与えられましたが、「私は村田珠光が大切にしてこなすびちゃいれいた珠光小茄子(茶入)が欲しかった」と嘆いたといいます。ちゃじ身分の高い人に仕えて茶事を担うさどうさかいいまいそう師匠を茶頭といいます。堺の今井宗きゅうつだそうぎゅうせんのりきゅう久、津田宗及、千利休の3人が信長の茶頭として活躍しました。千利休はわび茶を大成させたことで有名です。次回はこの人物を紹介します。むらたじゅこう室町時代の茶人・村田珠光は現在の茶道の原型をつくりあげました。確かな史料がなかったため、かつては架空の人物ではないかと言われてきましたが、今は実在したことがわかっています。しょうみょうじ珠光が奈良の称名寺にいた若い頃、まじめに修行しなかったので寺から追い出され、京都で暮らすようのうあみになりました。40歳の頃、能阿弥かだいとくじら茶を学びはじめ、大徳寺(京都)いっきゅうそうじゅんの高僧・一休宗純からは禅を学んだそうです。そのようにして禅の精神を茶の世界に導入し、わび茶という形式をつくりあげたのです。そのため、村田珠光は「わび茶の祖」と呼ばれています。珠光の後にわび茶を継伝統文化③かわい・あつし文教大学付属中学・高校教諭。現役の教師として歴史を教えるかたわら、多くの日本の歴史の本を書いている。「世界一受けたい授業」などテレビにも出演し、おもしろい歴史のエピソードを語る。イラスト・さじろうゆったりと味わう「わび茶」の祖・珠光茶室ではみな平等で尊敬しあう毎月1週目は理科、2週目は古文、3週目は留学、4週目は時事問題、5週目は漢文を掲載します。感想や取り上げてほしい歴史のテーマを送ってね。〒104・8433朝日中高生新聞「テーマで歴史探検」係へ。メール(chuko@asagaku.co.jp)、FAX(03・3545・0727)でもOK!

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です