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2017年8月13日付
太平洋戦争中に空襲などの被害にあった民間人を救済するための法律を制定しようと、国会議員らが本格的に動き出しています。終戦から今年で72年。苦労しながら生き抜いてきた被害者の高齢化は進んでいます。法制化が実現すれば戦後初になります。(編集委員・根本理香)
太平洋戦争の末期、日本の本土への空襲が激しくなり、死亡した民間人は30万人(原爆被害者を除く)ともいわれています。中でも1945年3月10日未明の東京大空襲では、炎や高熱によって人や建物などを殺傷・破壊する焼夷弾が、約2時間半の間に33万発も投下され、推定で10万人以上が死亡、4万人が負傷しました。
東京都江東区の平田健二さん(90)は、昼間は製鋼所で働き、夜間中学に通っていた17歳のとき、東京大空襲にあいました。避難中、右手首の辺りに焼夷弾が直撃。複雑骨折する大けがを負いました。しかし、病院では「傷口に赤チン(殺菌剤)を塗って、包帯を巻くだけ」。満足な治療は受けられませんでした。母ときょうだい4人は空襲で亡くなりました。
戦後はアイスキャンディーを売ったり、そばの屋台を引いたりしました。友人が始めた会社で仕事を得て、28歳で結婚。幸せな家庭を築く一方、今でも右手の指は曲がったままで、不便を強いられてきました。食べるときは左手を使い、字を書くときは自由に動かない右手でペンを持ちます。外を歩くときには人目が気になり「右手をポケットに入れてしまう」といいます。
国は旧軍人やその遺族には50兆円を超す補償をしてきましたが、民間の空襲被害者は対象外。1970~80年代に国の補償を求めて被害者の運動が盛んになり、野党が救済のための法案を国会に14回提出しましたが、すべて廃案になりました。
その後も、被害者や遺族は各地で国に対して損害賠償や謝罪を求める訴訟を起こしてきました。しかし、国は「戦争被害は国民が等しく我慢しなければならない」などと主張。いずれの裁判も原告側の訴えが退けられました。ただ、一部の判決では被害者の苦痛に理解を示し、国に法的な救済の義務はないものの、救済は「立法によって解決すべき問題」と述べました。
こうした動きを背景に、「天災の被害者を支援するのに、国が起こした戦争の被害者を放置していいのか」と、与党も加わった超党派の国会議員が2015年に空襲被害者救済の国会議員連盟(議連)を立ち上げました。今年4月には、空襲被害者の中でも身体障がいのある人に限って、一時金50万円を支給する法案の素案をまとめました。実現すれば、民間の戦争被害者への救済としては画期的なものとなります。
平田さんは東京大空襲の集団訴訟(2007年、東京地方裁判所に提訴、13年に最高裁判所で敗訴確定)の原告団に加わるなどしてきましたが、今回の救済法案をめぐる動きに対しては消極的です。「もう少し早ければ活動を後押ししたかもしれないけれど、今はちょっと外出するのも大変。お金をもらえることになったとしても、そのとき生きているかどうか」
被害者の高齢化が進む中、一日も早い法案の成立が求められます。
議連は、素案をまとめたものの、法案はまだ提出できていません。素案では、法律の趣旨を「長期間の苦労への慰藉」としています。慰藉とは「同情して慰めること」という意味です。賠償ではありません。
曲がったままの右指でペンを握る平田健二さん=7月、東京都江東区
国会近くで空襲被害の補償を訴える被害者ら=2015年12月
(C)朝日新聞社
素案では、一時金50万円の支給対象については、太平洋戦争が始まった1941年12月8日から、沖縄戦が公式に終わった45年9月7日までに、現在の日本の領土での空襲や船舶からの砲撃などで身体に障がいを負った人としています。けがによるケロイドなど大きな傷痕も対象とし、外国籍の人も含めます。
そのほか、空襲被害者の心の傷や、親を失った孤児など、被害の実態調査をすることや、追悼施設を設けることも挙げています。
ヨーロッパの国々には民間の空襲被害者を救済する制度がありますが、日本では原爆被害の対策以外はなかなか進みませんでした。「どの範囲で、どれだけやるかということを考えると、財政的にも進めにくかった」と、議連会長の河村建夫元官房長官は言います。
しかし、「国が起こした戦争に対して、一つの償いを示す方法はないか」という思いから、空襲被害者への救済を議員立法としてまとめようという動きになったそうです。
議連は今年の通常国会での法案成立を目指していましたが、6月の閉会までに法案の提出もできませんでした。素案の発表後、「身体障がい者だけが対象で、精神障がい者らはどうするのか」「戦後処理はすでに終了したのではないか」などの意見が相次いだためです。
河村さんは「気持ちをどう表すかが一番大切。もう少し議論をつめて、できるだけ早く意見を集約したい」と、早ければ次の臨時国会での提出を目指すと話しています。
●「長期間の苦労への慰藉※」を趣旨とする
●対象期間は太平洋戦争開戦の1941年12月8日から沖縄戦が公式に終わった45年9月7日
●空襲や船舶からの砲撃などで身体に障がいを負った人やケロイドなど大きな傷痕が残る人
●給付する一時金は1人50万円
●戦災孤児や精神的被害を負った人などの実態調査をする
●追悼施設を設置する
※慰藉…同情して慰めること
河村元官房長官
(C)朝日新聞社
ロングラン上映が続くアニメ映画「この世界の片隅に」は、戦時下の普通の人々の暮らしを描いた作品です。広島県呉市に18歳で嫁いだ主人公「すず」さんは空襲の被害を受け、いま生きていたら90歳くらい。空襲による民間被害者の救済法ができたら、その対象になります。(猪野元健)
作品には何度も空襲が登場します。片渕須直監督(57)は当時の様子を正確に再現するため、作品の舞台の広島で戦時中の住人らの証言を集め、空襲は日本と米国に残された記録を照らし合わせました。
国と国の総力戦は、軍人だけでなく市民の上に空襲をどんな規模で行い、どの爆弾が効果的かなどと考えました。片渕監督は「そんな工夫をしてしまう人間が嫌いになりそう」と話します。一方で、市民は苦しい中で励まし合って生活していたことに、東日本大震災(2011年3月11日)など最近の災害の被災者と通じるものを感じました。
すずさんは空襲で好きな絵が描けなくなりますが、傷ついたのは体だけではありません。親しい人たちが死んだことで、無力さや生き残ったことを悔います。本人は何も悪くないのに、罪悪感を背負って生きることになってしまいました。
片渕監督は子どもの頃、戦争による被害者が懸命に働く姿をよく見かけました。そんな時代に空襲被害者を補償する法律が整備されたら、すごく多くの人が浮かばれたのでは、と考えています。
「体だけでなく心が傷ついた人も対象にしてほしい。ただ、いま考えられている法律が整備される可能性があるなら、絶対に実現させたほうがいい。被害を受けた方に届いてほしいと思います」
映画を通じて、子どもたちには「戦争をできるだけ生々しい形で知ってほしい」と考えています。10代はいろいろなことに出会い、吸収する瑞々しい年代。ただ、戦時中は軍需工場で働くなど真っ先に空襲の被害を受けることもありました。
「同じ人生で同じ年代なのに、まったく違う環境で育った人たちがいるということはみなさんに知っていてほしい」
【この世界の片隅に】原爆が落とされた広島市と、軍港があった呉市に暮らす人々を描いたアニメ映画。こうの史代さんの原作を映画化し、昨年11月に公開。観客動員は200万人を超えました。8月に再上映する映画館も相次ぐほか、公民館などでの上映も広がっています。
片渕須直監督
記事の一部は朝日新聞社の提供です。