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2017年11月12日付
太平洋戦争末期、沖縄が戦場となった際に、「集団自決」(強制集団死)が起こった洞窟の内部が荒らされ、県内の10代の少年たちが逮捕される事件が9月に起きました。卑劣な行為そのものだけでなく、少年たちが動機を「肝試しだった」と話していたことが、地元の人々にとっては大きな衝撃となって伝えられました。戦争の悲劇をいかに伝えていくのかは、戦争体験者が年々少なくなる中で、大きな課題となっています。(八木みどり)
チビチリガマは、沖縄県読谷村にある自然洞窟(ガマ)です。「チビチリ」とは「尻切れ」という意味。細い川が流れ込んでいますが、どこへ流れ着くのかわからないので、地元ではこう呼ばれています。1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した際、このガマには地元の住民約140人が避難していました。
当時の人々は、学校などで「生きて敵国の捕虜になるよりは、死ぬべき」という考え方を教え込まれていました。米軍は「デテコイ、コロサナイ」などと呼びかけましたが、中の人たちはその言葉を信じず、「米軍に殺されてしまう」と考えました。そして翌日、身内に毒を注射したり、布団に火をつけたりして自決。ここでは85人(うち2人は米軍の手榴弾によって死亡)が犠牲になりました。
一方、チビチリガマから600メートルほど離れた場所に、シムクガマがあります。ここでも集団自決が起きそうになりました。避難していた人の中に英語を話せる人がいて、米兵と話したところ、「出ていけば殺されない」とわかったため、住民たちを説得。おかげで、避難していた約千人の命が助かりました。
身内同士で殺し合ったチビチリガマでの出来事は、戦後も長い間、語られてきませんでした。チビチリガマについて本格的な調査が行われたのは、戦後38年がたってからのことでした。
チビチリガマ遺族会の会長、与那覇徳雄さん(63)は、母方の祖父母ら5人が犠牲になりました。戦後に生まれた与那覇さんに対して、母親が集団自決について話をすることは、長い間ありませんでした。家族を一度に失ってしまった悲しみから、母親が二度も自殺を試みていたことを、ずいぶん後になってから知ったといいます。「生き残った人もみんな苦しんでいた。今でも体験を話せない人もいる。ここはそういう場所」
ガマを荒らした少年たちは警察の調べに対し、ガマの歴史を「知らなかった」と話したそうです。犠牲者の遺骨の大部分は戦後、収集されましたが、内部には今でも、小さな骨や遺品が残されています。少年たちからの謝罪文を読んだものの、「まだ気持ちはすっきりしない」と話す一方で、「修復作業を彼らと一緒にしたい。そしたら、彼らにチビチリガマについて語ることができるのに」。
与那覇さんの案内で、記者もガマの中に入りました。中にあった一升瓶などが割られるなど、遺品が荒らされていました=10月30日、どれも沖縄県読谷村
事件直後のチビチリガマの様子。入り口に供えられていた千羽鶴は、引きちぎられて地面に散乱していました=9月12日
(C)朝日新聞社
チビチリガマの入り口。右側にあるのは「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」=10月30日
米兵の呼びかけに応じたことで、避難していたおよそ千人もの人の命が救われたシムクガマ=10月30日
チビチリガマは2008年に村の文化財に指定され、現在では県内外から多くの人が訪れる平和学習の場となっています。そうした中で、沖縄県内の少年が「肝試し」として事件を起こしたことについて、村教育委員会の仲宗根求さんは「関係者にとっても思い出したくないような話ということもあり、普及不足だった点は否めない」と話します。
事件の第一発見者で、地元に住む僧侶の知花昌一さん(69)は、今回の事件は、悪ふざけがエスカレートしてしまう「集団心理のようなものが働いたのでは」と推測します。一方で問題視するのは、インターネット上でチビチリガマが「心霊スポット」として紹介されていること。「それを許してしまう時代であることが、事件につながったのかもしれない」と指摘します。
知花さんは、読谷村を訪れた人たちにチビチリガマについて解説することもあります。普段は中に入ることは許されていませんが、「話すよりも現場を見せた方が伝わる」との考えから、知花さん案内のもとで内部を見てもらっているそうです。
戦後70年以上がたち、チビチリガマでの体験を語れる人は、ごくわずかとなっています。「生存者たちの体験が年月とともに風化するのは当然。だからこそ、その中で体験者の話から追体験させるかのように、悲惨な歴史を伝えていくことが大切なのでは」
遺族会会長の与那覇徳雄さん(右)と、長年、証言活動集めに取り組んできた知花昌一さん
修学旅行などで沖縄県を訪れる人もいるでしょう。沖縄県で戦跡などを訪れたことがある朝中高特派員は、現地でどう学び、何を感じたのでしょうか。
京都・同志社女子高3年の安田朱里さんは今年3月、修学旅行で南城市の糸数壕(アブチラガマ)や糸満市の平和祈念公園などを訪れました。公園には沖縄戦で犠牲になった全ての人の名前を刻んだ「平和の礎」があります。「思っていたよりも何倍も広く、沖縄戦で苦しんだ人はこんなにも多かったのかと、視覚でも感じることができました」
家族とともに10回以上、沖縄を訪れていたそうですが、戦争の歴史を伝える場所に行ったのは初めて。「普段はなかなか戦争のことを調べたりしないと思うので、ぜひ、現地に行ってみてほしい」と話します。
東京都中野区立緑野中3年の長山将也さんは小学生の時、家族旅行で平和祈念公園や、沖縄戦で亡くなった女子学生たちのための慰霊碑「ひめゆりの塔」(糸満市)などを見学しました。特に心に残ったのは、平和祈念公園で展示されていた実物の不発弾。「不発弾がまだあることに驚き、怖くなった」と振り返ります。
「戦争体験者の話を聞いて語り継ぐのが一番だと思いますが、やがてそれができなくなっていく。まずは沖縄で学んだことを身近な人に伝えていきたい」
糸数壕(アブチラガマ)(南城市)
沖縄戦の際、病院となり、ひめゆり学徒隊が看護活動を行っていました
写真はどれも(C)朝日新聞社
ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)近くにある「ひめゆりの塔」
平和祈念公園(糸満市)の「平和の礎」
記事の一部は朝日新聞社の提供です。