朝日中高生新聞
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「北海道」命名150年

2018年10月28日付

先住民族 アイヌ尊重求めた名付け親

生誕200年 全国を旅した探検家・松浦武四郎

 1869年、それまでと呼ばれていた北の大地が、探検家・まつうらたけろう(1818~88年)の案を元に「北海道」と命名されました。今年はそれから150年目。この間、新しい土地を切り開く「開拓」が進められ、北海道が発展した一方、先住民族のアイヌ民族の人々にとっては苦難の歴史となりました。(今井尚、編集委員・根本理香)

蝦夷地をくまなく歩き、記録

 今年は、北海道の名付け親である松浦武四郎の生誕200年にもあたります。どんな人だったのでしょうか。
 武四郎は現在の三重県まつさか市出身で、若いころから全国を旅しました。江戸時代の末期、蝦夷地の実情を知ろうと、内陸部までくまなく歩き、記録に残しました。
 蝦夷地にもともと暮らすアイヌ民族の人々と寝食を共にし、さまざまな情報を教えてもらいながらの探検は、28歳から41歳にかけて計6回にわたりました。地形や各地の動植物だけでなく、アイヌの人々の暮らしぶりや、アイヌ語による各地の地名も詳細に記録しました。
 当時、アイヌの人々は蝦夷地に進出した日本人(和人)の役人や商人などに過酷な労働を強いられるなど、差別的な扱いを受けていました。武四郎はそうした状況も文書にして訴えています。

アイヌ語「カイ」を新地名に

 明治維新後、蝦夷地に詳しいことを買われて政府の一員となり、蝦夷地に代わる新しい地名をいくつか考えました。その一つが「ほっどう」。「カイ」とは、アイヌの人々が自分たちの暮らす国を指す言葉だそうです。この案を元に「北海道」と定められました。
 ただ、アイヌの人々や文化を尊重するよう求めた武四郎の意見は聞き入れられず、迫害は続きました。武四郎は政府の役人を半年ほどで辞めてしまいました。
 よししょういんら幕末の志士をはじめ、政治家や学者、絵師や歌人など、幅広い交友関係を持ちました。晩年は、珍しい石や古銭などの古物もたくさん集める一方で、各地への旅も続けます。
 (70歳)を記念して富士山に登るなど、数え年71歳で亡くなるまで、旅への思いは生涯衰えませんでした。

旅の人生振り返る「一畳敷」

 現在、東京都たか市の国際キリスト教大学(ICU)の敷地内に、武四郎が自身の古希を祝って造った書斎「いちじょうじき」が残っています。この書斎を造るにあたり、全国各地の知人や友人に由緒ある神社や寺などの木材を送ってくれるよう手紙でお願いし、集まった90もの木材を組み合わせました。
 武四郎の生誕200年を記念してICUで6日、シンポジウムが開かれました。松浦武四郎記念館(三重県松阪市)の主任学芸員、やまもとめいさんは「武四郎はだれもが成しとげなかったことに挑戦し、世間が驚くことを喜んでいたのではないか」と述べました。
 「前代未聞」の一畳敷については「老いてきて、これ以上旅をすることができなくなった武四郎が、旅の人生を振り返る大切な場所だった」と話していました。
 ICU内にあるあさはちろう記念館では、特別展「ICUに残る一畳敷」を11月9日まで開催しています。原寸大で精巧に再現された一畳敷のレプリカも見ることができます。

 マスコットキャラクターたけちゃんの写真
松浦武四郎生誕200年を記念する地元・松阪市のイベントでは、マスコットキャラクターの「たけちゃん」が応援隊長として一役買っています
(C)朝日新聞社

同化を強いられたアイヌ民族

文化・歴史を伝承する動き

 「北海道の歴史が他の都府県と違う点は、アイヌの人々の歴史と明治以降の開拓の歴史があること」。そう話すのは、北海道博物館(札幌市)の学芸員、あずましゅんすけさんです。
 北海道は150年以上前は「」と呼ばれ、アイヌの人々が暮らしていました。日本の領土ではありませんでした。
 アイヌの人々は固有の文字を持たず、アイヌ語を話し、本州に出かけて日本人(和人)と交易しました。ユーラシア大陸北東部を流れるアムール川下流域からやってくる人々などとも積極的に交易し、豊かな文化を育んできました。
 江戸時代中頃になるとロシアが南下し始め、幕府は危機感を強めます。
 明治時代になり、新政府は1869(明治2)年に呼び名を「北海道」と変え、日本の領土にしました。開拓使を置き、欧米の先進技術を取り入れた官営工場などをつくり、発展させようとしました。
 1886年に北海道庁ができると、さらに移住者を増やし、農業を中心とした開拓を進めました。奈良県かわ村から移住した人がもとになった新十津川町や、広島県からの移住者にちなんだ北広島市など、今も地名に歴史が表れています。
 和人の増加に伴い、アイヌの人々は暮らしている場所から立ちのかされました。耳飾りや入れ墨など伝統的な風習を禁止し、日本語を使うよう強いるなど、同化政策が進められました。
 明治時代には本州からの移住者は増え続け、明治の初めごろ10万人に満たなかった人口は、1901年には100万人を超えました。アイヌの人々はいま、数万人ともそれ以上ともいわれますが、正確な数はわかりません。
 先住民族に対する国際世論の高まりなどを受けて1997年に「アイヌ文化振興法」ができ、日本への同化を推し進めてきた「北海道旧土人保護法」はようやく廃止されました。2008年には国会が「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択しました。
 「アイヌの人々が長い間、交易により自分たちの文化を変化させながら育んだ歴史を北海道の歴史に位置づけ、伝えていこうとする動きが近年、盛んになっている」と東さん。15年に開館した北海道博物館では、アイヌ文化の世界を展示の一つの柱にし、その暮らしや文化を伝えています。
 アイヌ文化の復興を目指し、20年にはしらおい町に国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園ができる予定です。

【アイヌ民族をめぐる動き】

13~16世紀 アイヌ民族の社会、文化が形成される
1669年 「シャクシャインの戦い」で、アイヌ民族が蜂起するも鎮圧され、
     松前藩への服従が決定的に
1869年  アイヌ民族が暮らす蝦夷地を「北海道」に
 86年 北海道庁を置く
 99年 北海道旧土人保護法を制定
1997年 アイヌ文化振興法を制定。北海道旧土人保護法の廃止
2008年 国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択
 09年 アイヌ古式舞踊、ユネスコの無形文化遺産に

新しく建てられた英雄シャクシャイン像の前で、アイヌ民族の古式舞踊を披露する人々の写真
新しく建てられた英雄シャクシャイン像の前で、アイヌ民族の古式舞踊を披露する人々=9月、北海道新ひだか町
(C)朝日新聞社

復元されたアイヌ民族の伝統的な住まいを映した写真
復元されたアイヌ民族の伝統的な住まい。中央に炉があり、火種を絶やすことはなかったといいます=北海道博物館

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