朝日中高生新聞
  • 日曜日発行/20~24ページ
  • 月ぎめ967(税込み)

1面の記事から

原爆のこと、世界に伝えたい

2019年8月4日付

高校生らの英語ガイド デビュー

 広島と長崎に原子爆弾が落とされてから、まもなく74年です。海外からの観光客は増え続け、外国語で原爆の被害や平和の大切さを伝える意義が高まっています。広島平和文化センターは今年、高校生らの英語ガイド「ユースピースボランティア」を始めました。言葉や文化の違いをふまえ、どう伝えるか――。考え続けた31人が5日、デビューします。(中塚慧)

ボランティアで31人

 “More than 8000 students were working when the atomic bomb was dropped in Hiroshima, and about 6300 of them lost their lives.”(その時、8千人を超える学生が動員されていて、約6300人が亡くなりました)
 7月末、広島市の平和記念公園にある動員学徒れい塔。本番に向けた練習ガイドで、高校2年の生徒が広島の高校に通う留学生に向けて話し始めました。戦争中、労働力不足を補うために働かされ、原爆で亡くなった生徒たちのことを説明。生徒は、英語が伝わるようアクセントを辞書で調べたといいます。「これだけの生徒が犠牲になったことを知ってほしい」
 ユースピースボランティアは、公募で集まった高校1年から大学4年までの31人。6月から研修を受け、英語で原稿を書くなど準備してきました。公園内の原爆ドームや原爆の子の像など10カ所を英語で案内します。練習ガイドに協力したスウェーデン出身の17歳は「みんなの英語はわかりやすかった」。ドイツから来た16歳は「平和のために若い世代が歴史を勉強するのは大事ですね」と言います。

使命感/易しい言葉で

 メンバーの思いはさまざまです。大学2年生は、父が米国人で母が日本人。母方の祖父は被爆者です。「父は『米国がやったことでこうなった。僕の代わりに学んできて』と背中を押してくれた。私には、米国人としての使命感と被爆者の家族としての使命感の二つがある」
 高2の生徒は昨年、フィリピンに短期留学しました。「現地の生徒に原爆の話をしたら、ぽかんとされてショックでした。もっと世界の人に知ってほしい」
 別の高校2年の生徒は、祖父が被爆者です。「戦後、草を食べてしのいだ話などを聞いた。原爆を生き抜いた人が身近にいることをかみしめて、活動していきます」。英語については「自分のわかる易しい言葉で伝えることを心がけたい。あとは、笑顔を大事にして」。
 31人は5日、中国やイタリアから訪れる高校生らをガイドします。9月以降は月1回、活動します。

【広島、長崎への原爆投下】

 太平洋戦争末期の1945年8月6日午前8時15分、米軍は広島に原爆を投下した=写真は上空に広がるキノコ雲、米軍撮影。爆風、熱線、放射線などにより、その年だけで約14万人が犠牲に。同9日午前11時2分、長崎に原爆を投下。45年末までに約7万人が亡くなった。同15日、国民は戦争の終結を知る。放射線や熱線による健康被害の原爆症に苦しむ被爆者は今も多い。

上空に広がるキノコ雲の写真

ベテランガイド・八木さんからアドバイス 知るを楽しみ、出会いを楽しむ

 活動にあたり、メンバーは広島平和記念資料館などで解説をするヒロシマピースボランティアのあけさん(70)に話を聞きました。ヒロシマピースボランティアは20~80代の203人が登録し、68人が英語でも活動中です。八木さんもその一人です。

わかることだけ答える

 「海外からのゲストは、母語が英語の人ばかりではありません。わかりやすい英語で話すことを心がけましょう」。心構えとして「わからないことを聞かれたら、素直にI’m not sure.(わかりません)と答えること」とアドバイスします。
 これには、八木さんの失敗談が関係しています。爆心地からわずか約170メートルの燃料会館(今のレストハウス)で、1人だけ生き残った故むらえいぞうさんの話。ある日、スコットランドからの観光客に「野村さんは元気でしたか?」と聞かれ、「Yes」と答えました。「84歳まで生きられた野村さん。お元気だったと思い込んでいました」。後に、野村さんの手記を読んで原爆症の症状に苦しんだことなどを知りました。「思い込みでガイドをしてはいけないと、思い知りました」
 ガイドが縁で、八木さんを頼って何度も海外から訪れる人もいます。「知るを楽しみ、出会いを楽しむのがガイドのだい。ユースピースボランティアにも期待しています」

実体験のバトン受け取り、伝えて 英語で体験を語る被爆者 小倉桂子さん(82)

 広島でただ1人、英語で体験を語る被爆者がいます。8歳で被爆したぐらけいさん(82)。気をつけているのは、語る相手の国の歴史や文化を考えることです。

 「ピカッて光り、真っ白で何も見えなくなった。爆風で体が持ち上げられ、地面にたたきつけられて気を失いました」
 1945年8月6日の朝。小倉さんは爆心地から2.4キロの自宅前にいました。「気がついたら、朝なのにあたりは真っ暗で物音一つしない。まわりはがれきの山で、わらぶき屋根が燃えているのが見えました」
 家にいた両親や弟、妹も奇跡的に無事でした。近所の神社は、やけどを負い、裸同然で爆心地の方向から逃げてくる人であふれました。

頼まれて通訳始める

 広島女学院大学英文学部1年の時。19歳になった小倉さんは、広島の原爆被害を世界に伝えたドイツのジャーナリスト、故ロベルト・ユンクさんから「英語を話せる若い被爆者」として取材を受けました。その後、ユンクさんの通訳を務めていた小倉かおるさんと結婚。米国生まれの馨さんが各国の要人に広島の現状を伝えるのを、妻として支えました。しかし小倉さんが41歳の時、馨さんは急死します。
 泣き暮らしていたころ、ユンクさんから電話で「広島に行くから通訳をしてほしい」と頼まれました。通訳の経験がなく断ろうとしたら、こう励まされました。「愛する人を失い、また原爆で苦しむ人たちを見てきたケイコは、ヒロシマを世界に伝える人になれる」
 次第に海外のメディアや写真家らが広島に来た時、通訳を頼まれるように。「40代のころは、学生の時よりもうんと英語を勉強した。もう、辞書を食べるくらいに」

聞き手の背景考えて

 1人の活動に限界を感じ、84年には「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」を結成。現在は約160人の通訳ボランティアがいます。
 被爆者の通訳をしてきた小倉さんが、自身の被爆体験を語り始めたのは60代になってから。米国の高校生に「直接、英語で言って」と頼まれたのがきっかけでした。
 語る時に気をつけるのは、それぞれの文化や歴史を考えることです。「おじいさんが日本兵に殺された東南アジアの人も、『自分たちを憎んでいないか』とおそるおそる聞く米国人もいる」。日本軍が攻めた地域の人には「ごめんなさい」から講話を始めます。米国人には広島の復興を助けた米国人の森林学者、故フロイド・シュモーさんの話などをします。
 先月27日、ブラジルから来た大学生への講話では、こう締めくくりました。「私の話を聞いたのは運命と思ってください。バトンを受け取って、伝えていって」

絵を持つ小倉桂子さんの写真
小倉桂子さん。手にするのは、自身の被爆体験を広島市立基町高校の生徒が描いた絵=どちらも7月27日、広島市

ブラジルの大学生に語る小倉さんの写真
ブラジルの大学生に語る小倉さん(左)

関連記事

最新の記事

    記事の一部は朝日新聞社の提供です。

    • 朝学ギフト

    トップへ戻る