朝日中高生新聞
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1面の記事から

東日本大震災から4年 大地震のあと 芽吹いた夢

2015年3月8日付

この春、石巻日日新聞の記者に 千葉拓人さん

 東日本大震災から、11日で4年を迎えます。警察庁によると、死者は1万5890人、行方不明者は2590人(2月10日現在)。の災害を経験しても、新たな夢に向かって進む10代を追いました。(猪野元健、今井尚)

 ひろさん(19)が震災を経験したのは中学3年生の時でした。直後から、もともと好きだったカメラで、ふるさと宮城県石巻いしのまき市の風景を収めてきました。その数は10万枚以上。「ツタエル」と題した写真展をこれまでに全国各地でのべ10回開きました。
 震災1年後、地元の石巻日日新聞の協力で仙台市の一般社団法人が発行する「石巻こども新聞」に、子ども記者として参加しました。
 「記者」として取材をする中で、多くの本職の記者やカメラマンに出会い、報道の仕事にあこがれるようになりました。この春、4年間かけて高校を卒業。石巻日日新聞に実績が認められ、4月から記者として就職することになりました。
 中学生のころ、東京にあこがれた時期もありました。でも震災後、写真を撮るために石巻のさまざまな場所に出かけ、人に出会い、街の魅力を知りました。
 「ちょっと荒っぽいけど、港町特有の優しさがある。石巻が大好きになってきました」

臺隆裕さんの写真
被災地を支援するチャリティーコンサートに出演し、トランペットを演奏する臺隆裕さん=2014年11月、東京・サントリーホール

「いのちの教科書」作りに取り組む女川中出身の高校1年生たちの写真
「いのちの教科書」作りに取り組む女川中出身の高校1年生たち=2月28日、宮城県女川町

千葉拓人さんの写真
この春から新聞記者になることがきまった千葉拓人さん。写真展「ツタエル2015」を燦ぎゃらりー(埼玉県川口市)で9日まで開いている

大好きな街 自分が「ツタエル」

 震災から4年。最近は、ファインダー越しに眺める風景に、以前のようには大きな変化を感じなくなってきました。
 「街が元通りになることはないでしょう。復興とは何か、難しい問題です。でも人々がある程度満足できる状態を復興というのなら、思ったよりも早く復興は成しとげられるのではないかと最近感じています」
 震災前は16万人以上いた石巻市の人口は今、14万人台。人口減少が続いています。仮設住宅から復興住宅への入居はまもなく盛んになり、人々の暮らしは再び大きく揺れ動きます。
 そんな街で「記者として何を書きたいか、何が書けるのか、今はまだ漠然として想像もつきません。2、3年たったら、記者・千葉にもう一度話を聞いてやってください」。
 まもなく記者1年生の春が始まります。

【東日本大震災】 2011年3月11日午後2時46分、三陸沖でマグニチュード9の地震が発生。東日本の太平洋側の広い範囲に津波が押し寄せ、家や人が流されました。東京電力福島第一原子力発電所では事故が発生し、周辺の住民は避難を余儀なくされました。
 2015年2月12日現在、仮設住宅などに避難している人は約23万人。去年末までに8県に4933戸の復興住宅が完成しましたが、計画の16%にとどまっています。

「いのちの教科書」作成中 宮城・女川中出身の高1

千年後のすべての命守りたい

 宮城県おながわ町の女川中学出身の高校1年生たちが、防災用の教材「いのちの教科書」作りにはげんでいます。人口約1万人のうち800人以上が犠牲になった町から、未来の子どもたちの命を守ろうという取り組みです。
 メンバーは石巻市や仙台市の高校に通う約20人で、月に2回程度集まっています。目的は、女川町を支援してくれた人たちを災害から守ること。約70ページを想定し、36項目中の半分ほどが生徒たちの体験談で、命を守る記録となることを期待しています。
 中学の社会の授業で、津波被害を最小限にする三つの案「お互いの絆を深める」「高台へ避難できるまちづくり」「記録に残す」を考え、災害に強い町づくりを自分たちの力で挑戦してきました。
 「記録に残す」活動では、中学生の時は津波到達地点に石碑を建てるプロジェクトに取り組み、卒業後はいのちの教科書作りを進めています。津波対策や地震のしくみ、避難訓練、心肺蘇生の方法なども盛り込み、年内に完成させる予定です。
 祖母を失い、仮設住宅で暮らすむらしゅんさん(石巻高校1年)は3年前、町議会で津波対策を発表。議員から質問されて、「おれたちが町をかえていく」と答えました。「何を聞かれたかは覚えていませんが、こう言い切りました」。当時は町の防災を考えていたといいますが、いまは国内外の人たちへ目を向けています。「自然災害への備えについての考えを変えたいと思っています。千年後の命を守ることがみんなの夢です」
 東京の出版社がいのちの教科書の発行に興味を示しているそうです。

「あたりまえ」の幸せを痛感

 石巻市の高校に通う女子生徒は、震災から4日後に避難所から家へ向かったときのことを原稿にまとめました。一部を掲載します。

 震災から4日後、避難所から自宅へ帰る道路は地割れでガタガタ、魚の死骸や泥、がれきで埋まりコンクリートが見えません。おびただしいハエと、かいだことのない異臭。こんなに簡単に町が奪われ、震災前の町を思い出せなくなってしまう。海に腹が立ち、怒りを押し殺す。そんな状況でした。
 震災で生活がガラリと変わりましたが、これまで「あたりまえ」にしてきたことがどれほど幸せなことだったか気付くことができました。一日一日を大切に、一分一秒もむだにしないように。

「いのちの石碑」の写真
津波避難を呼びかける「いのちの石碑」を建てる活動もしています。町内に6基できました=2月28日、宮城県女川町

「いのちの教科書」の原稿の写真
「いのちの教科書」の原稿

音楽の力信じトランペット奏者に 臺隆裕さん

生きていたこと 忘れないで

 あの日、自分が死んでいたら、何が一番悔しいと思うか――。4年前、高1だっただいたかひろさん(20)は、岩手県おおつち町で被災し、考えました。結論は「生きていたことを忘れ去られてしまうこと」。吹奏楽部で担当していたトランペットの奏者になって、亡くなった人たちに思いを寄せてもらえる演奏をしたいと、東京の音楽専門学校に進学しました。
 大槌高校に通っていた臺さんは、音楽室で練習中に大きな揺れにおそわれました。学校は高台にあり安全でしたが、家に戻った生徒はけがをして、高校を卒業した先輩が亡くなりました。町の犠牲者は1200人以上。臺さんは自宅が流されただけで、五体満足なのは奇跡だと思いました。
 トランペット奏者になると決めましたが、心が折れそうになったこともありました。新学期が始まり、部活の練習をしていると、体育館に避難している人から、うるさいぞ!と怒られました。「なんだ、音楽では人を温められないし、空腹も満たせないんだ、と」
 一方で、吹奏楽部は震災後に演奏会に力を入れ、臺さんは演奏を聞いて涙を流す被災者を見ました。県外では被災地を考えてもらえる機会になりました。音楽の力を信じようと、心に決めました。
 いまは毎日学校で練習にはげんでいます。はじめは東京生活がさびしく感じられましたが、大槌を出たからこそ出会えた仲間がいて、週末はバンドなどで演奏する機会が増えています。
 11日は、大槌町の追悼式に招かれ、「ふるさと」を独奏する予定です。演奏者として、人として成長したら大槌に帰り、音楽を通じた町の復興にも貢献したいと決意しています。

専門学校の音楽仲間といる臺さんの写真
専門学校の音楽仲間といると笑いが絶えません

練習にはげむ臺さんの写真
練習にはげむ臺さん。「明るい」「気持ちが伝わってくる」音だといわれます=どちらも2日、東京都文京区

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