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2016年6月19日付
沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった人たちを悼む「慰霊の日」を迎えます。地元の中高生はこの日に向けて、日本軍と米軍が住民を巻き込み繰り広げた地上戦について学び、今の暮らしを改めて見つめ直します。11日、沖縄本島北部の高校生向けに開かれた戦跡めぐりに同行しました。(編集委員・別府薫)
本島の北には「やんばる」と呼ばれる緑豊かな山岳地帯が広がります。本部半島の八重岳に、かつて陸軍の野戦病院がありました。静かな森の中で名残をとどめるのは、病棟の基礎の石積みだけです。
病院跡を見上げながら、89歳の上原米子さんが自作の紙芝居を掲げました。18歳だった1945年3月、名護の県立第三高等女学校から「なごらん学徒隊」として動員され、ここで傷ついた兵士たちを看護した経験を語ります。高校生約30人が聴き入りました。
真暗な病室に横たわる兵士。ろうそくで軍医の手元を照らす上原さんたちが描かれています。「この兵隊は、ひざから下が切れてブラブラぶら下がっていました」と、上原さんが絵を指さしながら説明します。「その足を軍医が麻酔なしで糸のこみたいなものでゴリゴリ切っていくのです。でも、一言も『痛い』と言わない。終わったら『ああ、やっと軽くなりました』って言いましたよ」
4月1日、本島中部に上陸した米軍は、南北に分かれて軍を進めました。八重岳は16日に総攻撃にあい、上原さんたちは病院から撤退することになります。歩けない兵士は連れていけないので、枕元に乾パンと手榴弾を置くよう命じられました。「看護婦さん、なんでこんなものを配るんですか」と聞かれましたが、答えることができませんでした。
病院で手榴弾を渡され、「男泣きに泣いた」と話すのは、大城幸夫さん(87)です。東江新太郎さん(86)らとともに名護の県立第三中学から通信兵として動員されました。砲弾で足をけがして病院にたどりつきましたが、患者があふれて中には入れませんでした。「勉強するために学校に入ったのに、どうしてこんなことになったのか」。悔しさがこみあげました。
置き去りにされるところでしたが、同じ隊の三中生がいっしょに連れていってくれました。「友だちが助けてくれたから私の命がある。友だちは本当にありがたい」。大城さんはおだやかに語りかけました。
八重岳の野戦病院跡(沖縄県本部町)
語り部となったのは元なごらん学徒隊の上原米子さん
元三中通信隊の東江新太郎さん
大城幸夫さん
戦跡めぐりは、名護市教育委員会が企画した「高校生とともに考えるやんばるの沖縄戦」です。1995年から毎年開き、今年で22回目。今回は、北部地域4校の生徒が参加しました。
三中と三高女は戦後、県立名護高校になりました。一行は、名護高に残る戦跡もたずねました。南燈慰霊之塔には、太平洋戦争をふくむ第2次世界大戦で亡くなった両校の卒業生・在校生計375人の霊がまつられています。
名護高1年の崎浜進矢さんは「慰霊碑があることは分かっていたけれど、くわしくは知らなかった」と驚きます。岸本篤樹さん(今帰仁村・県立北山高3年)は、上原さんの話が特に心に残りました。「今度はおばあちゃんの戦争体験を聞こうと思う」
名護は、宜野湾市の米軍普天間飛行場の移設先の辺野古を抱えます。島野乃花さん(名護市・県立北部農林高2年)は「事件や事故が多い基地はない方がいいとは思うけれど、基地で働く人もいるから難しい」と考えます。「自分は、まだどちらの立場でもない。沖縄戦のこともふくめて勉強中です」
宮里満理奈さん(北山高3年)は、大学では観光や文化を学ぶつもりです。「将来は観光業に就き、県外や国外の人に戦争の話を伝えたい」と自分の将来像を描いていました。
戦跡めぐりを計画した名護市教育委員会の川満彰さん=写真=の話
沖縄本島を南部、中部、北部に分けると、日本軍と米軍の戦争の作戦によって、住民の巻き込まれ方が違ったことが分かります。戦争は、緻密な計画に基づいて行われるものなのです。
米軍が沖縄をねらったのは、日本本土を攻撃する基地造りのため。45年4月1日に54万8千の大軍は、まず中部の読谷に上陸し、日本軍の飛行場を奪いました。そして、中部で基地を造りながら、住民を巻き込んで南部で戦闘を繰り広げました。
一方、11万の日本軍は、本土決戦を遅らせなくてはならない。南部のガマ(自然壕)に隠れて、持久戦に持ち込もうとしました。また、北部では、10代の少年を集めて「護郷隊」を作り、ゲリラ兵としての訓練をさせました。
北部の山間部には、南部から住民が次々と避難してきました。米軍は早い段階から民間人の収容所を作り始めます。日本軍の敗残兵も北部に流れ、食料強奪やスパイとみなされた住民が虐殺される事件も起きました。
このときにできた基地や収容所が、今の米軍基地と重なります。現代の沖縄の基地問題を考えるためにも、沖縄戦の歴史を学ぶことは必要なのです。戦争は人間が起こした「人災」だから、人間が止めることもできる。このことも、沖縄戦を学ぶ若い人たちには知ってほしいですね。
県外からの修学旅行生に「沖縄のために自分たちができることはありますか」と聞かれると、「どんな分野でも沖縄につながるさあ」と答えています。まずは、自分の地域で、人のためにできることを考えてほしい。それがいつか沖縄につながります。
【沖縄戦と若い世代】
1944年8月22日
学童疎開船「対馬丸」が米軍の潜水艦の攻撃で沈没。1484人が犠牲に
10月
北部各地の少年たちの「護郷隊」への招集が始まる
10日
米軍が那覇などへの大規模な空襲を行う
45年3月下旬
・県立第三中学の生徒数百人が「三中通信隊」「三中鉄血勤皇隊」として動員される
・沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒222人が「ひめゆり学徒隊」として沖縄陸軍病院へ動員
・県立第三高等女学校の生徒10人が「なごらん学徒隊」として沖縄陸軍病院名護分院へ動員
26日
米軍が慶良間の島々に上陸
4月1日
米軍が沖縄本島中部に上陸
16日
八重岳の戦い、伊江島の戦い
5月31日
米軍が首里を占領
6月23日
日本軍の司令官、牛島満中将が摩文仁で自決。日本軍の組織的戦闘が終わる
8月15日
天皇が玉音放送で無条件降伏を発表
※名護市教育委員会の資料などをもとに作成
【沖縄戦】太平洋戦争末期に沖縄で繰り広げられた地上戦。沖縄県によると、死者は日本約19万人で、このうち住民が9万4千人。県民の4人に1人が犠牲になったといわれる。学徒動員などで、10代の若者も命を落とした。米軍の死者は1万2520人。
戦後は米軍の統治が1972年まで続いた。日本にある米軍基地のうち74%が沖縄に集中する。
(上)旧三中の正門(下)柱には弾丸が当たったとみられる跡が残ります=名護市の県立名護高校
(C)朝日新聞社
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