わたしと朝小

朝日中学生ウイークリー

 

取材は子ども時代一番の思い出

 

朝小豆記者として甲子園に行った

河野万里子さん 翻訳家

 

 『星の王子さま』(サンテグジュペリ)や『悲しみよ こんにちは』(フランソワーズ・サガン)などの翻訳家・河野万里子さんは、朝小の豆記者として高校野球の夏の甲子園大会を取材しました。「子ども時代で一番うれしかった出来事」と話します。息子さん(東京大学文科T類2年)も、河野さんのすすめで小学校入学前から朝小を読んでいたそうです。

 

 

「今の朝小はページも増えて読むところがいっぱいあるので、みなさんがうらやましい」と話す河野さん=東京都杉並区で 撮影・渡辺英明

 

世の中に対する窓を開けてくれた

 

 ――朝小を読み始めたのはいつごろですか。

 4年生のとき、母が朝小の存在を知って「いいものを見つけてきた」といった感じで、読書好きのわたしにすすめてくれたのがきっかけです。毎日読める自分の新聞ができたのがうれしかったですし、作文や絵の投稿コーナーを読んで、自分と同じ小学生なのにすごいなと感心して、わたしもがんばろうと思いました。


 ――作文などを投稿されたことがあるのですか。


 いいえ。腰のひけた小学生だったのでありませんでした(笑い)。甲子園取材の豆記者は、名前と住所だけ書いて応募すればよかったので、五年生のときに出してみました。父がNHKの記者でしたので、記者という仕事にあこがれがあり、その仕事が夢の舞台である甲子園でできるというのでワクワクしました。
 取材当日は、開会式を終えた選手をつかまえてインタビューし、途中まで第一試合を見た後、甲子園近くのおそば屋さんでカツどんをごちそうになりながら作文を書きました。カツどんはおいしいけど、時間は限られているし、自分の思うように書けないし、つらかった。
 でも、朝小で一番の思い出です。インタビューした東海大相模が優勝もして、朝小の思い出というよりも子ども時代で一番うれしかった出来事ですね。


 ――紙面で印象に残っているのは?


 四コマまんがの「ジャンケンポン」は欠かさず読んでいました。いまも続いているのには驚きました。六年生のときだったか「泉先生に暑中見舞いを書こう」という企画があって、ドキドキしながら自分の一番きれいな字ではがきを書いたのを覚えています。出したことを忘れたころ、泉先生から自筆のはがきが届きました。ジャンが線香花火をしている絵が描いてあって、すごくうれしかった。


 ――朝小を読んで役立ったことはありますか。


 語いが増えたことはまちがいないですし、社会や世界への興味がすごく広がったと思います。大人の新聞は難しくて門前ばらいといった感じでしたが、朝小は世の中に対する窓を開けてくれました。それまで興味がなかった社会科もぐっと好きになりましたね。
 それに、見出し・リード(記事の最初にある短い文)・本文という構成の新聞記事に毎日接することは、文章で一番いいたいこと・大事なこと、要旨をつかむ力をつける訓練になったと思います。これは翻訳の仕事でも役立っています。翻訳では、著者が一番伝えたいことは何かをしっかり理解していなければ、良い訳になりません。 


――息子さんも読者だったと聞きました。 


小学校に入学する前の三月から購読しました。まんがを中心に読んでいるようでしたが、宇宙や天文、恐竜、乗り物などが好きな子でしたので、中面に興味のありそうな記事が載っているときには切り抜いて、学校から帰ってきたら読めるように食卓の上に置いておきました。

 

河野さんが甲子園で取材した東海大相模高校の優勝を伝える1970年8月22二日付の朝小

 

 

応募が自信に

 

 ――朝小の読者にメッセージをお願いします。


 小学生時代は頭も心も体もやわらかく、時間もたっぷりある豊かな時代。新聞を読んでいろいろなことを知った上で、自分が好きなことを見つけて夢中になってほしいですね。わたしのように企画に参加したり、作品コーナーに応募したりするのもいいですよ。思い出になるだけでなく、きっと大きな自信をもらえると思います


 河野さんは「新聞のすごさは、パァッと開くだけでさまざまなニュースがひと目でわかること。全部読まなくても、見ているだけで頭のすみに残っていく」と話します。1959年、父親の転勤先の大阪で生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。93年、バベル国際翻訳賞新人賞受賞。主な訳書にドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』、エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』などがあります。


2011年5月22日付

実際の紙面ではすべての漢字に読みがながついています。
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